環境地球化学研究室紹介

 私たちの研究室では,主として、有機分析化学的な手法により、現在の環境下および比較的近過去の環境下での物質循環システムの変化から、その場の環境の特質や変遷を記述することを主な研究目的としています。

担当教官  福島和夫(Fukushima Kazuo) 信州大学理学部教授

専門:地球化学のうちで,とくに有機物分析を通じての環境解析。また,陸水の水質形成に関わる地質条件など,諸々の地球化学的因子の評価に関する研究。 


環境地球化学研究室の責任者の福島です。

 私は,大学院生のときには,東京大学理学部化学教室の「無機合成化学」という研究室に所属していて,金属と有機化合物が作る錯体,なかでも金属ー炭素結合を持った,いわゆる有機金属錯体(低原子価金属のオレフィン錯体)について勉強してきました。

 博士課程修了後の1976年,幸い東京都立大学(現在の首都大学東京)の理学部化学科分析化学研究室に職を得て,新たに有機地球化学という分野に取り組むことになりました。

 化学分析というのは化学と名のつく分野であれば,大なり小なり関わらざるをえないものですが,地球化学での化学分析では,大体μg(10-6g)からng(10-9g)以下が勝負です。合成化学ではグラム少なくとも数十mgのオーダーですから,まずそのスケールの違いに戸惑ったことを覚えています。しかも対象は有機化合物,すなわち元素ではなく,分子として同定することが求められますので,いわば「はじめの一歩」は,決して楽なものではありませんでした。

 有機地球化学で多用する主な分析装置はGCGC-MSです。私が研究をスタートした頃のGCは,まだまだ分解能や感度も低く,データ記憶装置(あるいは積算計)も全く不十分でした。定量や作図をするためには,ペンレコーダーや感光紙で出力されたクロマトグラムやマススペクトルのピーク高さを定規で測ったり,トレース用紙で写しとったりと,ひとつひとつの作業が大変手間のかかるものでした。ペンレコーダーがスケールアウトしたらデータが取れませんから,ジーッとペンの動きを見ていて,危ないと思えば瞬時のうちにレンジ切り替えを手動でしなければなりません。そんなわけで1日中機器の前から離れずにいて,ほとんど人と会わなかったということさえありました。

 最近のオートサンプラ付き・ワークステーション付きのきれいな機器を見ると隔世の感があります。それでも,自分の予想と合うか合わないか,ハラハラドキドキ期待しながら記録計のペンの動きを見ているというのは,それはそれで楽しいものです。十分時間があるから実験前に予測する。データはすぐに処理する。その結果をみて必要な実験や分析を次の段階として準備する。現役で実験をやれるうちはそうありたいものと今でも信じています。

 そうこうしている間に時間はあっという間に経ってしまいました。自分なりに面白いテーマは見出すことができましたが,なかなかそれを発展させることができずにおりました。そんなときに信州大学の理学部地質学科から声をかけていただき,19927月に赴任,その後1995年新学科(物質循環学科)ができてそちらに移るまでは,高校以来の地質学を勉強させてもらいました。

 以下にこれまで私たちの研究室で取り組んできたことと,現在進行形の研究内容について紹介させていただきます。

具体的研究テーマ 

.環境」の特性は,そこに生息する生物相に反映します。生物は種により,また属以上のレベルでも固有の有機分子を合成したり,特定の化合物を多く含むことがあります。これらはBiochemical Markersまたは,単にBiomarkers(バイオマーカー)と呼ばれています。生物活動の痕跡は,そのような分子情報として湖沼や海洋の堆積物に刻み込まれていきます。比較的新しい堆積物の有機物組成を詳細に観察することによって,生物活動と堆積物記録の関係を克明に知ることができます.この積み重ねで過去の環境変遷の解読に有用な情報を提供するというのが私たちのグループの守備範囲と考えています。



1. 火山国であるわが国には,いくつもの無機酸性湖があります。無機酸性湖は,火山ガスの影響を受けて,硫酸または塩酸酸性を示す湖沼で,泥炭などから溶け出したフェノールなどの水溶性の酸性有機化合物が溶解して酸性を呈する,いわゆる「腐植栄養湖」とは,大きく性格が異なります。また近年のイオウ酸化物やチッソ酸化物が原因となった酸性雨による酸性化とも異なり,長期間にわたって低いpH環境にさらされて来たために,酸性条件に適応した生物からなる特異な生物生態系を作り上げていることが想像されます。分子としてはどんなものが残されているのでしょうか。

 私たちの研究室では,屈斜路湖・田沢湖・猪苗代湖といったわが国有数の大湖で,かつ低いpHを示す湖沼堆積物や懸濁物に,メチル側鎖をもった一連の長鎖分枝炭化水素(炭素数23-31で28が極大),脂肪酸(炭素数29が極大),アルコール(炭化水素と同じ)が普遍的に存在することを見出しました。この起源は,湖水中に浮遊する微生物(たぶんある種の藻類)に由来すること,堆積物中でのそれらの量的変動は,過去の湖水のpH変動を敏感に捉えている可能性が高いことがわかりました。すなわち過去のpH指標j化合物として見なすことができるのではないかと考えています。不思議なことにこうした化合物の報告例は国際的にはなく,これがわが国の酸性湖生態系特有の現象なのかもしれません。共通の性質をもつ酸性の湖沼が世界のどこかで見つかると,いろいろと比較して検討する余地が広がるところなのですが.今のところは,日本だけでの話になっています。
私たちはこれをpH指標と信じて,それぞれの酸性湖が辿ってきた歴史を見ることができると期待しています。一番最近の調査は,2009年10月の屈斜路湖です。

 
美幌峠から望む屈斜路湖.中央の島は中央火口丘で中島と呼ばれている

かつて酸性湖と呼ばれていた屈斜路湖は,過去20年ほどの間にpHが急速に上昇して現在では中性を保っています。その原因も確かめてみたいものです。

 なお,日本の無機酸性湖の代表格で,日本で最も深い(420m強)田沢湖は,1940年に国策でpH=3ほどの強酸性の玉川河川水を導水し,発電用貯水池と変えられました.この結果,長い間孤立した湖で育まれた固有種が全滅してしまったという苦い経験があります.そのひとつクニマスが2010年秋に,山梨県富士五湖のひとつ,西湖で70年ぶりに発見されました.絶滅を危惧して卵を各地の湖に放流して来たものが,たまたま西湖ではうまく適応して自然繁殖していたというのです.田沢湖には私たちも過去数回調査に訪れています.田沢湖のpHは,多少改善傾向にあるようですが,pH上昇がみられるのはまだまだ表層の50m以浅だけで,魚類として復活したのは酸性に強いウグイくらいです.このニュースを聞いて,なんとかクニマスを里帰りさせてやりたいと思ったのは私だけではなかったでしょう.

 

2. ある種の植物は,特有な有機化合物を生産します.もちろん比較的共通性の高いものもあります。これらのうちで,とくに陸起源物質の指標として使われるものには,陸上植物の樹脂に由来すると考えられる環状のジ,トリテルペノイドやクチン酸があります。それらの存在量から,例えば沿岸海域での物質の移動・集積を見積もったり,湖沼堆積物では集水域の植生の変遷を推定したりすることができます。これらの化合物は,
水中の植物プランクトンでは,生産されるとしてもごくわずかで,もっぱら陸上の植物に起源があります。したがってこれらの化合物の量的変化を,有機炭素/チッ素比,また有機炭素の安定同位体比など多数の指標と対比させながら,堆積相解析をより正確にできると期待できます。

  

3. 現世環境下での有機化合物の続成作用に関わるイオウの効果。言い換えると不安定分子の安定化。イオウは二重結合やケトン,アルデヒドなどの官能基と反応して,イオウを介した炭素−炭素結合を作ることが知られています.活発な火成活動によって反応性の高い単体イオウや硫化水素が大量に供給される水環境や,海水が侵入し,底層が無酸素となる沿岸湖沼では,硫酸還元によって発生する硫化水素の付加反応が期待されます.イオウは有機化合物の初期続成作用において,どのような役割を果たすのでしょうか。
ごく微量な有機イオウ化合物をGC-MSで検出するのは容易でありませんが,現生環境としては珍しいいくつかのイオウ化合物が,宮城県の潟沼や鹿児島県甑島貝池の堆積物中で同定されています。




4. 甑島の貝池・海鼠池や三方五湖の水月湖のような部分循環の汽水湖では,周年成層が崩れず,底層は完全に無酸素となります。このような場では,嫌気性バクテリア(光合成イオウ細菌,硫酸還元菌,メタン細菌)に由来するバイオマーカーが多く認められます。現存するこのような特徴的なフィールドの有機化学的特性を理解しておくと,生物が密接に関連した過去の堆積場の復元,とくに海洋無酸素事件(OAEs)などの研究に有用な情報を与えることになります。
  私たちの研究室では2000年8に甑島に最初の調査に行き,その後2002年10月,2003年3月,2008年8月,2010年6月と2012年8月と計5回にわたってサンプリング調査を実施しています。また2005年からは,ほぼ毎年のように三方五湖の調査・サンプリングに出かけています。


レインボーラインの展望台から見渡した三方五湖(手前右が水月湖,右端に菅湖,また左手前に日向湖,奥が久々子湖)

2010年からは,三方五湖のさらに西,京都府の久美浜湾を対象に広げました.ここは湾と呼ばれているように現在は海とつながっていますが,かつては淡水湖だったところで,水月湖と同じような経過をたどった可能性があります.


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5. 溶存有機物の分離と化学分析   

 18世紀の昔から,土壌にはアルカリ水溶液で抽出される,黄色〜黒褐色の有機物の分画があることが知られています。農学者の多くが,これはロシアの肥沃な黒土地帯(チェルノーゼム)の土壌中に多いことから,作物の成長に役立つものと考えていました。その中で,J. Walleriusは有機物の水と栄養塩の収着,保持という特性に着目していたことがあげられます。
 19世紀に入ると有名な化学者であるJ.J.Berzeliusが,この実体を解明したいと,アルカリで溶出したものに,酸を加えて沈殿分離するなどして,今日フミン酸,フルボ酸,フミンと呼ばれるような性状をもった有機物に分けられることを示しました。何とかして純物質を分離したいという試みはこの後1920年代まで続きました。
 一方,生物が枯れたり死んだりすると,次第に褐色になる(褐変化反応:Browning Reaction)は広く認められていました。そこで腐植物質の成因は微生物作用と深い関係があるとの指摘もありました。化学的成因を唱えた代表的な研究者として,l.C.Maillardがあります。彼は,アミノ酸と糖の水溶液を加熱すると茶褐色の物質ができることをという純化学的な反応を提唱しました。この反応は,後にランダムなアミノ基と水酸基との縮合反応と,それに続く転移反応の結果できあがる,単一分子ではない高分子量物質であることがわかっています。彼の名をとってMaillard 反応,できるものをメラノイジンmelanoidinsと呼んでいます。この反応は,医療現場で使われる点滴液のように,無菌状態であっても,糖と蛋白,あるいアミノ酸を混ぜた状態で置いておくと変色してしまうことからもわかります。もっとも自然界では,微生物・あるいは微生物が持つ酵素の働きが重縮合を加速していることは間違いないようです(味噌や醤油をみればよくわかります)。
 土壌や堆積物に含まれるこうした腐植物質というものが単一の物質(分子)でないことは今では確定しています。またフミン酸,フルボ酸,フミンの違いは,アルカリ水溶液,酸水溶液に溶けるか否かを基準にして定義付けられていますが,次第にその違いは分子量(重合の程度,芳香族化の程度),親水あるいは疎水官能基の数の違いといったところにあることが指摘されるようになって来ました。したがって固有の物質名のような用語を使うことはいかがなものかと私は考えています。そこで私たちの研究室では,これらを一括して天然高分子量有機物質と呼びます。今取り上げている水中の溶存有機物の場合は,これまでwater humusとかドイツ語で黄色物質(Gelbstoff)と呼ばれてきました。私たちはあえてこれらもあえて高分子量溶存有機物(High Molecular weight Dissolved Organic Matter: HMW-DOM)と呼んでいます。
 溶存有機物の濃度は,試水によってまちまちです。湿地とか泥炭地のような例外を除きますと,概ね1-5mg 炭素/Lほどです。化学的な分析をしようと思うと,最小限1Lは濃縮しないと必要量を確保できません。濃縮方法にはいろいろあって,1)水を蒸発させる,2)樹脂などに吸着させる,3)分子量が大きいことを利用して,細かいろ紙でろ過する,などの方法が試みられてきました。1)はただ加熱して水を蒸発させるのではなく,減圧にしてやれば多少は穏やかにできますが,時間がかかるのでまず行われません。2)が最も効率が良いとして幅広く行われて来ました。活性炭のように非常に吸着能にすぐれたものもありますが,脱着をどうするかが難題です。そこで専ら多孔質の合成樹脂が使われてきました。しかし実際やってみるとわかるのですが,樹脂は使用中でも劣化したり,少しずつ崩れて粉末化してきます。最初に洗浄するのも相当大変な作業ですが,脱着の時に少量とはいえ樹脂成分が入り込むのは好ましくありません。確かに多くの人がこの方法を取って来ましたし,これからも続くかも知れませんが,私としてはあまり薦められる方法とは言えないと考えています。

 3)はそうしたことから有力な方法のひとつとみているのが限外ろ過という方法です.分子の大きさで分けようという目的のためには,透析膜が使われることもあります。限外ろ過(Ultrafiltration)では,分子サイズで1000ほどまではろ別できるような細かい孔隙をもったろ過膜が使われます。もっともごく普通のやり方でろ過すえるのではとても時間がかかりますし,目詰まりが大きな問題となります。そこで最近注目されているのがtangential flowとかcross fileld flowといって,膜面に水平に試水を流し,一定の圧力をかけることで少しずつろ過するという方法です。送液ポンプを使い,試水は高速でこの膜面の上を通過します。濾過されなかったものは再びタンクに戻り,連続的に膜上を流されます。私たちの研究室では大体100gを目安にろ過していて,25時間ほどの運転で1gまで濃縮することができます。

 後は攪拌式のろ過装置を使ってさらに200_gまで慎重にろ過します。これ以上ろ過を続けることは難しいので,その後凍結乾燥すればHMW-DOMは薄い褐色の粉末として得ることができます。限外ろ過膜の分画分子量はそれほど厳密なものではありませんし,運転条件によって若干の変動が起きる可能性があります.私たちが使っているミリポア社の装置では,主に濃縮率に依存して,100gから1gまでであれば,分子量で1500ほどの分子が,50%以上回収できることを確認しています。 こうして得られたHMW-DOMは,溶存全有機炭素量のおよそ半量に達しました。分離した粉末試料は,元素組成比,安定同位体比,脂質組成を通じて検討しています。湖水をはじめとする淡水系では無機イオンが少ないのでこのTangential Flow Ulrafiltration (TFF)は,これまでになく有力な方法であると考えています。

Pericon Lab Casette (Millipore Ltd.) 

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6. 多環芳香族炭化水素(PAHs)の環境化学

 典型的な環境汚染物質としては,水銀・カドミウム・鉛・ヒ素など人体や生物に有害な金属や半金属元素,90Sr,137Csなど主に大気中核実験に由来する放射性同位元素,農薬として野放図に環境中に散布されたDDT,BHC,2,4,5-Tなどの有機塩素化合物,合成洗剤として多量に使われたABS(アルキルベンゼンスルフォン酸),有機塩素化合物の副産物,また燃焼の副産物としてその毒性の高さゆえに大問題となったダイオキシン類,絶縁・熱交換の用途に使われたPCB,安定なガスとして発泡剤やスプレーに使われたフロン,燃料の不完全燃焼生成物である多環芳香族炭化水素(PAHs),元素や化合物ではありませんが,鉱物として問題となったアスベストなど枚挙に暇がありません。ちなみに史上最強の毒性物質と言われるダイオキシン類のTCDD毒性換算の濃度(TEQ)は,焼却施設脇などの特に汚染がひどい土壌で,十数ng(10,000pg/g)/gであることがわかっています(基準は1,000 pg/g)。
 私たちの研究室では,これらの中で,1グラムの堆積物中,大体数ナノグラムから数百ナノグラムの範囲で有機分析にかかってくるPAHsについて調べています。PAHsの中には発がん性を持っているとされるものがあるため,比較的多く研究されています。環境中のPAHsは,産業および生活の近代化とともに増加してきました。それは,石油・石炭・薪炭が,エネルギー目的に大量に燃焼されるようになったためです。PAHsは300以下の分子量で,通常はほとんどが固体結晶ですが,常温でも少なからず蒸気圧をもっています。このため燃焼ガスとともに大気中に放出されると,微細な粒子に付着したものを含めて,多くが大気中にとどまったまま移動し,雨や雪とともに地表に落下してきます。ですから,広域の大気汚染状況を把握するのには適した化合物であるといえます。
 長野県内の湖は,諏訪湖を除くと工場や人口が集中しているところはなく,風光明媚な観光地として知られています。仁科三湖(青木湖・中綱湖・木崎湖)や野尻湖はその典型的な例としてあげることができるでしょう。しかし,その堆積物の中のPAHsを調べてみると,とくに木崎湖が高いことがわかります。単位重量あたりでは諏訪湖よりも高い値です。青木湖は木崎湖と比べるとだいぶ低い(1/3)けれど,野尻湖よりも高い,全般に仁科三湖の方がPAHsに関しては,諏訪湖・野尻湖よりも高濃度に汚染されていると言えます。現在の仁科三湖には融雪期,仁科山地東麓だけでなく,北アルプスの鹿島槍ヶ岳から五龍岳東麓に積もった雪どけ水が入ります。野尻湖や諏訪湖にも融雪水は入るでしょうが,格別に標高が高く積雪量も多い北アルプスでは,大気汚染物質がそれだけ捕集・濃集されやすいように思えます。確かなことはまだ言えませんが,どうもそのよう解釈が妥当なのではないかと考えています。




アルプスを象徴する花 コマクサ


初冬の北アルプス(大学からの景色) 


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