2 ナポリ地域の火山


図2-1 ナポリ地域の火山の分布 (Sheridan et al.,1981に加筆)

ナポリの西と東にはそれぞれCampi Flegrei, Somma Vesuviusの両火山が分布している.それらに挟まれたナポリはまさに火山の上の都市である.


1)最初に訪れたのは,ベスビオ火山観測所(Osservatorio Vesuviana)である. この観測所は世界最古の火山観測所で,1841年にブルボン家のフェルディナンド二世の治下Colle del Salvatoreという名のエトナ中腹の丘(標高609m)に建設された. この地は1631年の大噴火以後噴火にみまわれていなかったことから選ばれた. もともと小さな教会があった場所らしい. ただし,現在観測所の主要な施設は火山から十分離れた他所に移され,会議室などのある建物が新たに建てられ,往時の建物は火山博物館として公開されている.

図2-2 1859年の観測所


図2-3 現在の観測所の建物

大きな松の木の枝の張り具合は日本のものとだいぶちがい,まるでキノコのようである. 小プリニウスが79年噴火の噴煙柱を松の木に例えた理由が初めて理解できた.


図2-4 往時の観測所の建物

現在の建物のとなりで博物館として使われている.


図2-5 博物館へ登る道沿い

石垣にはエトナのものと思われるパホイホイ溶岩の岩塊が使用され,美しい模様をなしている.


図2-6 火山博物館入り口にて

参加者と観測所のGiovannni Orsiさん,Mauro di Vitoさんとで記念撮影.


2)Vesuvius山頂をめざすはずであったが,前日の雨がたたって登山道が閉鎖され,やむなく登山道入り口でカルデラ壁などを眺めて説明を受けるにとどまった.


3)Pompei

AD79年のVesuvio火山の噴火は8月24日の昼間に始まった. 噴火は最初マグマ水蒸気爆発,次いで噴煙柱を30kmも高々とあげるマグマ噴火となり,翌朝まで続いた. 噴煙柱上部は「松の木」のように開き,風により南東に運ばれた. Pompeiではその軽石堆積物は2?3mの厚さで堆積した. 火砕流も発生したがPompeiまでは来ることなく,ここの多くの住民はこのプリニアン噴火を生き延びることができた. しかし,25日朝に激しいマグマ水蒸気爆発が発生して,火砕サージが約9km離れたPompeiを襲い,多くの逃げ遅れたか逃げなかった住人はこの時に殺された. この噴火に際して大プリニウスはミサノ岬の基地を出発して海路ナポリ湾をこぎ渡りソレント半島基部に上陸して命を失う. その甥の小プリニウスは勉強が忙しいからと基地に残り,噴火をそこから観察して手紙に書き残した. その際にPompeiとErcolanoの2つの町が噴火により埋没したことはなぜか書き残さなかったため,それから16世紀までの千数百年間忘れ去られることとなった.


図2-7 ポンペイ・ノチェラ門近くのNecropoli(墓地)

傘をさしている津久井さんの正面にAD79年噴火堆積物の露頭が見える.


図2-8 同上 露頭近接写真

軽石層の上位にサージ堆積物が重なる. サージ堆積物はデューン構造が顕著で,最大径1cmの火山豆石を含む. 豆石も含めてかなり硬く固結している.被災者などの痕跡が空洞になって残っていたのはこの地層.


図2-9 ポンペイ発掘現場

作業中の立入禁止場所を柵外から覗かせてもらった. 写真右下に露頭断面が見える. そのほとんどは軽石層で,その上位のサージ堆積物に遺体などが埋まっているのがわかる.


図2-10 同上遺体鋳型近接写真


図2-11 ポンペイ・フォーロ(広場)>/p>

北にVesuvio火山をのぞむ.


図2-12Pompei 発掘された遺体の石膏鋳型


図2-13  同上


4) Ercolano  (図2-1ではHercolaneum)
ErcolanoもPompei同様,Vesuvio火山のAD79年噴火によって埋積された都市である. もともとティレニア海に面した海抜20mの小高い丘の上にあった. ここでは,火砕流と土石流堆積物が20数mの厚さに溜まった. 18世紀から始まった発掘の過程で1980年になって初めて200を越える人骨が発見された. それらの人骨は海に面した崖の横穴の中で発掘された.海へと避難しようとして被災したようだ.


図2-14

Ercolanoの遺跡から東にVesuvio火山とその外輪山Sommaを仰ぐ.
丘の上に建つのは現在の街並み.


図2-15

Ercolanoの町は,このように横穴の掘られた海食崖の上に建設されていた. 図2-17の堆積物が完全にこれらの地形を埋め立てた(この写真撮影位置はその堆積物の上). 現在はこれだけ掘削されている. 横穴の中から多数の人骨が発掘された.


図2-16 同上 横穴の中の人骨.

「ほとけ様」をこのように粗末に放置しているのは国民性のちがいか.


図2-17

 

噴火前の海岸から,AD79年噴火による堆積物の掘削断面を見上げる.
大部分は火砕流堆積物であり,およそ4層に区分されている. この写真範囲外,人の足下よりも下位に最初の噴火堆積物である,数十cm厚のサージ堆積物がある. 写真範囲内最下位の1.5m程度の軽石流堆積物の中からボートが発掘されている. その上位は厚い火砕流堆積物からなるが,トンネルの天井をかすめるように地層の境界があり,その上の地層で岩片の量が多いとされている.


5) Campi Flegrei カルデラ

このカルデラは3万7千年前のカンパニアン・イグニンブライトと1万2千年前のナポリタン・イエロータフの噴火による2回の陥没により形成されている. カルデラ内では活発な噴気活動や,急激な地殻変動が起こっている. この活動的なカルデラの内部の人口は150万人にのぼる.


図2-18 カルデラを東から見る.

写真中央から右手に見える丘陵はカルデラ内の隆起部.
その隆起部が海に出っ張っているところがPozzuoliの町. その向こうにうっすらと見えるのがカルデラ西部の壁にあたる. モンテヌーボー火山は視点からPozzuoliの町のほぼ延長上にある. 写真左の最突端が小プリニウスがいたミセノ岬.


図2-19

Solfataraという名前の火山のクレーター内部. 硫気孔のことを一般的にこう呼ぶのはこの地にちなんでいる.ク レーターは断層に規制されて500 x 600mの長方形の形をしている. 約4000年前にサージを発生し,1198年にも噴火したらしい. こうしたクレーターの凹地も立派な「火山」なのである.


図2-20 Monte Nuovo火山

1538年に火砕丘を作る噴火をした. これがカルデラ内で最も新しい噴火である.


図2-21 Pozzuoli市内の「セラピスの寺院」

実は寺院ではなく,市場の跡らしい.
ライエルの地質学原理の裏表紙(図2-22)にこの寺院の挿し絵が描かれ,大地が沈降・上昇することの証拠として取り上げられたことはたいへん有名.


図2-22 ライエル著「地質学原理11版」の裏表紙にあるセラピスの寺院のスケッチ

これら42フィートある柱のうち,下12フィートの表面はスムースであり地層に埋まっていたと思われ,その上12フィートは穿孔貝によって孔があけられている. このことから,寺院は一度水没し,その後隆起して現在(1836)にいたったとされた.
現在みると図2-21のように柱の根元の海水もすでにしりぞいている.
ライエルは,地質学原理XXX章に「ジュピターセラピスの寺院」という項目をたてて詳しくポズオリ付近の地殻変動について論じている. その中のさまざまな推論は,特に1538年のモンテヌオボ火山噴火ころの隆起の部分など,図2-23に示した最新知識にかなり近い. なお,ことさらライエルが陸地の変動を強調したのは,海水準の動きを重視した水成論者を意識したためだろうか.


図2-23 セラピスにおける地面の垂直変動 (Orsi et al. eds.,1998より引用)


この建物は紀元1-2世紀に建てられ,3世紀はじめに床が浸水したため修築されている. 10世紀から隆起し始め,1538年のモンテヌオボの噴火直前に大きく隆起した. その後沈降し,近年は上昇・沈下を繰り返している. 1969-1972の間の隆起量は174cmに達し,その後3年間沈降,75-81年の間は動かず,82-84年の間,1.4mm/日の割合で,この間179cm隆起した. こうしたこの地域の変動は,カルデラ内でのブロックの運動のためとされている. 長時間で見ると再生隆起をしているのであろう.


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