おとぎ話 第2話



UPDATE: 2007年6月9日

越えられない壁

子供がお父さんと海を眺めていました.

「ねえお父さん,今日,タマゴ,割っちゃったんだ」
「どうしたんだい?」
「庭にいるお母さんが,お隣さんに持っていくからタマゴをとってくれって」
「うん」
「いつもは1階の窓から手渡すんだけど,今日はたまたま2階にタマゴのカゴがあったから,2階の窓から投げちゃったんだ」
「それは,ずいぶん乱暴だな.で,どうなった?」
「お母さんはうまく受け取れなくて,地面に落ちたタマゴは,みんな割れちゃったんだ」
「ハハハ,それはそうだろうな」
「でもね,お父さん,一階の窓から渡したときは,たとえ手が届かなくて放り投げちゃったときでも,お母さんはきちんと受け取れたんだ.なのに...」

お父さんは大きくうなずきながら,これは物理法則を教える良い機会だと思いました.

「そうか,タマゴはもったいなかったし,お母さんも気の毒だけど,それは良い経験をしたね.何で1階から放り投げたときはお母さんは受け取れて,2 階から放り投げたときは受け取れなかったんだと思う?」
「うーん,よく分かんないけど,お母さんは速すぎてとれない,って言ってた」
「そう,それなんだ,いい所に気が付いたね」お父さんはうれしそうにうなずきました. 「重力って聞いたことあるかい?」
「リンゴの実が落ちるやつ?」
「そうそれだ」

お父さんは地面におちている棒きれで,砂の上に数式を書きました

v = g t

「ここでvは速度だ.1秒間に,リンゴやタマゴがどれくらい進むか,を表している.t は時間だ.ここでは単位は秒にしようか」
「うん」
「そしてg は加速度を表している.この値は9.8,って決まっているんだ」
「これがなんなの?」
「いいかい,一階の窓からタマゴの入ったカゴを放り投げて,お母さんまでに届く時間と,二階の窓から投げてお母さんまで届く時間は,どちらが短い?」
「そりゃ,一階だよ,近いもん」
「そうだね,じゃあこの式で考えてみよう」そういってお父さんはg の部分を9.8という数字に置き換えました.

v = 9.8× t

「ごらん.例えば,一階の窓からカゴを投げて,1秒でお母さんの手元に届いたとしよう.t に1を入れるよ.速度のv はいくつになるかな」

9.8 = 9.8×1

「9.8になる」
「そうだ.9.8m/sだ.1秒間にカゴは9.8m進む速さだ」
「そうだね」
「次は二階から投げたときだ.計算を楽にするために,2秒かかったとしてみようか」

「うん」といって,子供は砂の上の数字を1から2に書き換えました.

19.6 = 9.8×2

「どうだい,すごく速いだろう?」

「すごいね,時間が2倍になると,2倍の速度になるんだね」
それを聞いて,お父さんは満足したようにうなずきました.そして,物理法則はなんて美しいんだろう,と思いました.日を改めて,2階の窓の高さを測り,そ こから正確な速度も計算させてみようと思いました.子供はどんなに驚き,そして満足してくれるだろうか.

「ねえ,おとうさん」
「なんだい?」うれしそうにお父さんは振り向きます.
「すっごく高い場所から,タマゴを落としたら,すっごく速くなるね」
「うん,そうだな」
「どんどん,どんどん,無限に速くなるんだね」

「いやいや」といってお父さんはあわてました.「無限には速くなれな い」

「そうなの?」
「ああ,そうさ.考えてごらん,タマゴが落ちるとき,音がするね?」
「うん,ヒューって」
「そうだろう.音の速さっていうのはだいたい1秒間に300mぐらいしかすすめないんだ」
「すごい,それを計った人がいるんだね」
「そう,科学の力はすごいんだ.何でも分かるんだ.でも,タマゴが落ちているのに,音が聞こえないなんて事があるかい?」
「うーん」
「それからカモメが空を飛んでいる.カモメが鳴きながら飛んでいるのに,鳴き声が聞こえないなんて事があるかい?」
「うーん,想像つかないや」
「そう,物体が音の速さを超えて進むなんて事はあり得ないんだよ」
「なるほど...でも,タマゴをもっともっと高い所から落としたら,どうなるの?」
「きっとタマゴは途中で割れてしまうし,カモメは死んでしまうよ」衝撃波,という専門用語を思い浮かべましたが,そこまでいうことはない,と思いました.

子供はまた,いつものように,きらきらと輝く海の先を見つめていました.お父さんは話しかけました.
「そうだな,おとぎ話をしよう」
「なになに」
「むかしむかし,人は自分たちが神様より偉いと考えて,高い高い塔を建てようとしたんだ」
「うんうん」
「そこからものを落としたら,きっと音よりも速く進むに違いないって.でもそれを見ていた神様は,そんな世の中の法則を変えてしまおうとする人間たちに罰 を与えて,塔を作ろうとする人たち同士の言葉が通じなくなるようにしてしまったんだ」
「へーえ」
「そうして塔は結局完成せずに,神様の作った法則はずっと守られるようになったんだ」
「そうか,そうだったんだ」
子供の笑顔を見て,お父さんも笑いました.たまにはこんなおとぎ話もいい.大人になるまでにきちんと勉強して,この世界を動かしている法則を学んでほしい と思いました.

「そう,お前たち子供には,学ぶことが山ほどあるんだ...」